胸を打つ感動作「明日の記憶」に込められた深いテーマ

「明日の記憶」アイキャッチ画像

こんにちは、皆さん! 映画「明日の記憶」は、若年性アルツハイマーに侵されていることを知り愕然とする主人公と、それを必死に支える妻の姿を描いた物語です。アルツハイマーという恐ろしい疾患を前に、それでも前向きに生きようと決意する夫婦愛、それぞれの複雑な心境を綴る感動作です。

本作品は、アルツハイマー病がもたらす現実の苦しみや困難に向き合う主人公とその周りの人々の思いを丹念に描き出し、視聴者に深い感動を与えるとともに、重要なメッセージを伝えてくれます。

本記事では「明日の記憶」に描かれるアルツハイマー病の恐怖や苦悩を通じて、脳の機能不全による認知障害とはどんなものか探り、私たちが共感し合える視点を見つめてみたいと思います。

目次

「明日の記憶」予備知識

映画「明日の記憶」は、2004年に光文社から刊行された、荻原浩著作の小説をもとに、2006年、映画化されたものです。
過日、闘病生活の経験がある渡辺謙氏が在米中、小説「明日の記憶」を手にし共感、原作者である荻原浩氏に映画化を熱望したとされます。そんなことで、渡辺謙氏が主演と同時に、製作総指揮をも務めています。

【スタッフ・キャスト】

佐伯 雅 行 役(主人公):渡辺 謙 (ラストサムライ・沈まぬ太陽・独眼竜政宗・・)
佐伯 枝実子 役( 妻 ):樋口可南子(独眼竜政宗・篤姫・愛を積む人・ロマンス・・)

監督:堤幸彦
脚本:砂本量
原作:荻原浩
製作:坂上順・川村龍夫
製作総指揮:渡辺謙
音楽:大島ミチル

★YouTube「明日の記憶」Pickup

★2006年9月にはTBSラジオ&MBSラジオでも放送されました。
森本レオさん、松永玲子さん出演、正岡謙一郎氏が脚本を担当。

「明日の記憶」ざっくりあらすじ

広告代理店に勤めるサラリーマン佐伯雅行。働き盛りの49歳。
部下には檄を飛ばしバリバリ働く仕事人間。愛する妻・枝実子との仲も円満、ひとり娘の結婚を控え、忙しいながらも順風満帆の毎日を送っています。

しかし、最近になって物忘れが激しくなり、めまいや幻覚にも襲われ、ついには仕事に支障をきたすようになってしまいました。疲れがたまっているせいだと軽く考えていたのですが、訪れた病院で「若年性アルツハイマー」と診断されてしまいます。

まさかの宣告に愕然とする雅行・・恐ろしい現実に直面し悲観した雅行は、衝動的に病院の屋上から飛び降りようとするのですが、担当の医師の説得でなんとか思いとどまります。

枝実子はそんな夫を労わり、雅行は妻を頼り、二人は泣きながら病と向き合い、病と共に暮らす決意をするのですが・・現実は生易しいものではありませんでした。

めまい、幻覚、情緒不安定、病状は徐々に悪化してゆき、次第に記憶の空白が広がってゆきます。
焦り、怒り、不安に苛まれつつ失われゆく記憶を繋ぎとめようと、雅行は必死の努力を続けます。
そんな彼を、傍らの妻は健気に懸命に見守り支えるのですが・・

「明日の記憶」に見るアルツハイマーの現実

◆アルツハイマー病の症状と進行

アルツハイマー病は、脳の神経細胞か減退することで、記憶力が低下し、認知機能も徐々に失われていく病です。現在の医学では根本的な治療方法はなく、進行を遅らせる薬に留まっています。アルツハイマーは65歳以上の発症が多いとされますが、中には「明日の記憶」のような若年・中年で発症するケースは進行がより早いとされています。

初期では物忘れが増える程度、「あれ」とか「これ」ばかりで固有名詞が出てこない。誰しも「年のせい」「疲れている」ぐらいに軽く考えてしまいます。

映画では、友達の名前が出てこない、同じ物を何度も買ってしまう、いつもの道で迷ってしまう、大事な約束を忘れてしまう、などで失敗が重なり、とても仕事を続けられる状態ではなくなってしまいます。その結果病院でいきなり「若年性アルツハイマー」と診断が下されます。

この時点で主人公は「社会的な死」を宣告されたことになります。
映画の前半では、渡辺謙さんの演技力も相まって、アルツハイマーの様々な症状が怖いくらい伝わってきましたね。患者の苦悩に共感するところ大です。

暮らしの中でも、話はできるが言葉がうまく話せない、歯磨きなどいつもの動作が分からなくなり不器用になってくる、計画を立てても遂行できない、など様々な行動不全が現れてきます。
同時に、意識レベルが低下し、周囲がどんより曇って見えたり、白昼夢を見ているようなモヤモヤ感で寝ぼけたような状態。いわゆる、錯覚・幻覚・せん妄といった精神障害が襲ってくるのです。

映画の後半では、叙情的な思い出や回想シーンに紛れて、患者や家族の心の葛藤が割合サラリと描かれ、複雑で過酷な状況にあるはずの日常の暮らしも軽目で、ちょっときれいに過ぎた感がありました。
個々の家庭で事情は異なるので、こうしたレベルも有るだろうと思いますが、病と共に暮らす日常は黙して叙事的な描写が多く、視聴者側で心の内を察する仕様・仕上げとなっているようです。

病の進行は、時間と共に情緒不安定が高じ、やがて徘徊や失禁症状が現れ介護が必要となります。更に病状が進むと、動きが止まり寝たきりになってしまいます。

こうなると人間としての「人格の死」を迎えたと言わざるをえません。

病の進行には個人差がありますが、発症からの生存年数は約5年~10年とされます。映画の主人公は発病から6年で、ほとんど寝たきりとなってしまいます。もはや恍惚状態、赤ちゃんのように安らかな眠りの中にあり、病に対する苦悩を感じることもなくなっているのです。

◆アルツハイマー病とどう向き合うか?

アルツハイマー病の告知は、ガンの告知よりも残酷な面があるかもしれません。後者は回復の見込みがあり、少なくとも病に向き合う精神的な健全性が保たれる一方、前者は、心身を統括する脳細胞が減少するため、精神障害が現れ人格までも失ってしまうからです。

映画の中では、不治の病を悲観し衝動的に自殺行為に走ろうとし主人公に、担当医が一生懸命心の置き所を説いていますね。

「死ぬということは人の宿命です・・でもだからと言って何もできないわけではありません・・自分にできることをしたい・・」と。それは、死の淵に立たされた主人公にも当てはまる言葉でもあったのです。

生きている一瞬一瞬を、自分らしく、できることを精一杯やるしかない、それで消えてゆくなら仕方のないことだ。半分、いや、大方は諦めの気持ちの悟りだと、私は察するのですが・・
そしてまた、妻の「ずっとそばにいる」という言葉に主人公は勇気づけられます。

毎日の努力にもかかわらず、記憶は砂時計のようにサラサラと落ち続け失われてゆきます。主人公に未来は見えていません。ただ思い出を手繰り寄せ、手探りで先々の日々を模索し続けることが、命の灯となっているのです。

アルツハイマーの様々な認知障害は、度合いを変えながら、現れては消え、消えては現れるという厄介な症状が繰り返し続きます。怒ってみたり、泣いてみたり・・家族にしてみれば本人に何もしてあげられない辛さ、悲しさがあり、その上、気まぐれな患者の言動や行動に振り回され、神経を消耗させられます。
しかし、家族や周囲の支え無くして、患者の人生は立ち行かず、命も全うできないのです。

★家族の支えがあって患者さんも頑張れるんですね。

「明日の記憶」から汲み取る人生哲学・死生観

若年性アルツハイマー患者とその家族の物語は、私たちと全く無縁ではありません。本作品から読み取れるテーマは、生きること、命、死生観に及びます。
未来の不確かさ、一寸先は闇、そしてまた一方、困難に立ち向かう勇気や希望、家族愛や友情について深く考えさせられます。

本作品では、アルツハイマー病を自覚しつつ、辛い現実から逃げるのではなく、病気と向き合いながら、自分のアイデンティティと人とのつながりを維持しようとする姿勢が描かれ、アルツハイマーという難病を受け入れるという選択肢が示されます。

例えは難病との対峙ですが、これは社会という仕組みの中に暮らす私達に共通する問題でもあるでしょう。受け入れ難いことを受け入れねばならない苦悩と向き合いながら、社会や人とのつながり方、新たな生き方を模索する一歩をどう踏み出そうとするのかが示唆されます。

物語を通じて、私たちは人生の意味や目的について考えさせられると同時に、死生観についての洞察も促されます。「死は必ず迎えるべき人生の最後の一部」であり、「死や別れ」に直面することで「生や命」をより深く感じることが示されました。
人生において何が本当に大切なものか? 真の幸せとは? どのように生きるべきか、という問いについて考える機会が与えられます。

また、人間関係や時間の流れによって、死への恐れや受け止め方も変わってくることに気づかされます。生命の終わりを迎えることで、それまでの人生がいかに大切なものであったかを感じさせられるのです。
これまで経験・体験してきた記憶がどれほど心の支えとなるか、思い出がいかに自身の魂の慰めとなるかを知ることができます。

この物語を通じて、私たちは自分の人生を思いやり、より豊かに生きるためのヒントを得ることができるのではないでしょうか。映画「明日の記憶」から、生老病死を見つめつつ、人生の歩みを再考してみたいと思います。

傍での体験談:認知異常の恐怖

父はメモ魔、日記も付けている。毎日数冊のノートを座右に置き、何でも書き留める。10年来の習慣である。
ある朝のこと。父が畳に座り込んでノートを上にしたり下にしたり、延々と繰り返している。何をしているのと問うと、「どれがどれだか、何だかよく分からないんだよ」と、曖昧な返事。

翌日、今度はこうだ。「ちょっと・・計算方法が分からなくなっちゃった」
毎日血圧や血脈の計算まで行い記録している。簡単な計算なのだか、いくら説明しても理解できない。

そういえば、父は最近物忘れが多くよく探し物をしている。これは認知症の始まりではないかと私は思った。思いはしたが、認知症がそれほど重大な病という感覚は持ち合わせていなかったのだ。病院へ行くことを進めたが、健康を誇る父は大の病院嫌い。結局そのまま状況を見ることに。

数日後「トイレのドアが見つからないんだよ」とか「廊下が学校のように見えるんだよ、おかしいなぁ」など、明らかに認知機能や幻覚っぽいことを言い始めた。やはりおかしい。再度病院行きを進めるが、あれこれ理由をつけて頑固に拒む。自分が認知症だと認めたくないのだ。

そうして日が経つうちに、少しずつ体の動きが鈍くなってきた。もともと一家は皆健康で、こうした経験や知識とは無縁であった。「認知症になると体にも影響が出るのかな?」なんて、後で考えるとバカなことを言っていたのだ。

しまいには人の手を借りないと立ち上がれない、歩けないという状況に陥った。さすがに「これはヤバイ」家族共々異常を感じて、やっと重い腰をあげ病院へ行くことになった。

ところが翌早朝、父は突然嘔吐した。これは大変!「救急車!救急車!」救急車は5分で到着した。

診察の結果、認知症ではなく脳腫瘍と診断された。腫瘍が脳を圧迫していて、1分後か、5分後か、いつ死んでもおかしくない状況にあるとか。すぐに緊急手術の処置に入った。脳の緊急手術、聞くだけで震えが来た。

アルツハイマーや認知症ではなかったものの、脳の異常で認知症のような症状がでていたのだ。
幸い命は救われたものの、回復するまでは、ただただ怖かった。記憶が無くなり、自分が誰かも、家族すらも分からなくなってしまうのではないかと。

健康過ぎるが故に、病を軽く考えていたことの大失敗だった。

その後の経過はまずまずで、少しボーッとして認知度が低下してはいるが、記憶障害は避けられたようだ。早く元に戻りたい一心なのだろう、本人の希望でノートを用意した。一生懸命メモを取り続ける姿が痛々しい。
幸い父の場合は、時間と共にぼやけていた認知度が回復してきたのだが、逆だったらどうなっていただろうかとゾッとする。

いずれにしても、アルツハイマー病や認知症など脳の機能障害は、本人にも家族にも重大な影響を及ぼす。経済面もさることながら、特に精神面では辛い。周りで懸命に支えていることが本人に伝わらない、分かってもらえないというところがある。本人よりむしろ家族への心理ケアが必要なくらいである。

自分が認知症と自覚している段階では苦悩がつきまとうが、症状が進行して人格すら失えば、苦しいとも悲しいとも感じなくなるそうだ。命も魂も神の手に委ねられ救われるのだ。

「明日の記憶」まとめ

はい、「明日の記憶」観終わって「ハアーッ」とため息をついてしまうほど、身につまされるストーリーでした。誰でもが人生の途上でこうしたことに巡り合わないとは言えません。

もし自分が、生きながら「死の淵」を彷徨うような病にかかってしまったら、どのような心境で対処できるかと真剣に考えさせられます。

この物語はアルツハイマーという病気についての理解を深めると同時に、もしも自分が辛い現実と向き合うことになったら、どこに心を向け、どのように心を治めたらよいのか、一つの方向性が示されていますね。

高齢化社会の現代では65歳以上の認知症患者の数が約600万人、またアルツハイマー患者は約80万人もいるのです。私たちの身近にもそうした認知異常の患者を抱えるご家族が多くいらっしゃると思われます。

映画でご覧のとおり、認知異常に対する周りの人々の理解と共有はとても大切です。もしそうしたご家族に接する機会があったら、適切な声掛け・寄り添いなど、小さなサポートでも、優しい世の中に貢献することができますね。

★それでは、またお会いしましょう。Good Luck!

本ブログはSWELLを使用しています
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この記事を書いた人

居所地:日本の中央山岳地域で田舎暮らし
映画・TVドラマ大好き人間
古代ロマン・スピリチュアル小説ファン
Pen name:東岳院展大
Blog nickname:福徳星人

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